被害者意識は、もともと、楽な方向、安易な道を選んだ結果だろう。
言い方を変えれば、被害者になることは、楽であり、同情を得やすい。
日本には、昔から、そんなことを潔しとしない文化というか、傾向があり、被害者意識の育ちにくい環境だった。
究極は、全くの被害者であっても、「俺がバカだった」でその失敗をエネルギーに変え、向上心に繋げる。
昔から言われたことの一つに、外国で交通事故をおこしても、絶対に謝ってはいけないと言われた。
それは、謝罪することによって、こちら側の瑕疵を認め、相手を被害者の立場に立たせることになるからだ。
おそらく、外国の環境は、被害者側の立場のほうが強いからなのだろう。
これがどこからくるのか、わからないが、
日本人には、そんな考え方が育つ環境はなかったと言えるだろう。
韓国の軍艦島映画や慰安婦の問題などに象徴されるように、とにかく、
韓国は「被害者」だ、ということを宣伝している。
被害者の立場に立つためには、手段や事実はどうでもよく、被害者の立場を訴え続ける。
苦境から立ち上がるのは、努力が必要だし、長い時間も必要だ。それに比較すれば、
被害者のほうが、はるかに楽だし、タカル事もできるし、世界の同情も集めやすいし、
一種の生き抜くための魂胆、というか知恵なのだろう。
半島の文化、歴史は、被害者の立場になる、そのためにはどうすればいいのか、そればかりに強大なエネルギーを注いできたのではないか、と思う。