偏りはいい結果をもたらすことが少ない。
日本は、諸外国と比較すると、袖の下、賄賂が通用することは少ない。
賄賂が幅を利かすのは、権力や権限をもった立場にいる人で、末端の、たとえば、役所の窓口の人や、交通警察官になどに対しては、賄賂はきかない。
まあ、生活の潤滑油のようなもので、これを利用する外国は多い。
それにしても、海外で経験すると、日本人には、驚くことがままある。
辻本議員が、
「日本国民の財産と声明を守るために議員になったわけではなく、日本を壊すために議員になった」
こんな趣旨の発言を昔していると、動画で知った。
これは、しかし、辻本さんだけの目的ではなく、おそらく左翼と呼ばれる人々やメディアも同じだろうと思う。
天皇はいらない、憲法9条は守る、隣国の主張を支持する、北朝鮮の味方、などなど日本人の精神、文化、伝統を否定し、
日本人から日本人の日本人たる所以を根こそぎ奪い去ることに、すべてを注ぐ。
こうしない限り、日本を根本的につぶすことはできないだろうと思う。
日本にキリスト教は広く受容されなかった。
なにか大きな理由があると思うが、学者ではないので想像するだけだが、
おそらく、「絶対」を信仰するからだと思う。
仏教には「絶対」の概念がない。つまり「偏り」への戒めがある。
これが、それまでの日本人が持っていた感覚とマッチしたのだろうと思う。
ユダヤ教やイスラム教が日本で布教されたかどうか、全く知らないけれど、「絶対」への信仰は、日本人の文化とは合わないだろう。
どのくらい前か知らないけれど、共産主義はこの「絶対」への信仰と変わらないと、主張する意見を聞いたことがある。
よく憲法九条教と揶揄されているが、あれは揶揄ではなく、事実だろうと思う。
彼らとの会話は成立しないので、それで、●●教と言われたのだろう。
極端は、いい結果をもたらすことはまれだろう。
辻本議員や福島議員の主張を聞いていると、極端さを感じてしまう。
韓国が日本に対してやっていることは、極端の典型で、ムン大統領が、
日韓合意に対して、日本は法的責任を認めて、謝罪をするべきだと、主張したという。
ここまでくると、「考える」ことを放棄している極端さを感じる。
反日教の信者だろう。