頭脳明晰でも、考え方におかしさを感じてしまうことがある。
東大の立派な先生が言うと、無条件になるほどと思いがちだが、
それもなくなった。
学者でも、テレビに出るコメンテーターでも、時にバカなこと言っているなあ、と思うことがたびたびある。
日常でも、人柄に左右される。
自分が気に入った人柄の人に、好感を抱く。
話をする、付き合いをする、結局は、そういった人々になる。
北朝鮮やチャイナの軍事的な脅しは脅威だ。
戦争放棄でも、とばっちりを喰らうのは勘弁してほしい。
国会での質疑は、なんか、どうでもいいことだけにこだわっている。
思い込みも時には大事だが、大所高所から日本をみてほしいな、と思う。
民主党政権時の、あの大災害。
ヒドイ対応だったと思う。
教育勅語のどこがいけないのか、と主張する識者もいれば、批判するコメンテーターもいる。
意見を聞いていても、批判の意見は、どこか間抜けな感じするし、僻んでいるように聞こえる。
外国から多くの労働者が日本に来たり、難民が来たり、あるいは観光客が訪れたり、
にぎやかだが、
一つの村なり、町なりが、特定の民族のほうが多くなったら、ややこしくなる。
欧米ですでに証明されている。
同じ間違いを日本が繰り返すのは、愚かだろう。
ペルーを征服したのはスペイン人だ。
スペイン人たちは、多くの子孫をインディオとの間に残した。
つまり混血だが、その混血が現代のペルーを代表する人々になっている。
侵略とかいうが、これがホントの征服だろうと思う。
普通に考えても、例えば、
A国人がB国に移住して、B国で一つのコミュニティーを作り、あるいは一つの村や町を形成し、
そこで、母国A国のために「なにか」運動されたら、B国には鬱陶しいだろう。
蚕食のようにじわじわ食い荒らされていく。
これがヨーロッパで問題になっている事態だろう。
日本で在日朝鮮人、韓国人が、やれ人権だ、差別だのと叫んでいるのは、
鬱陶しい。
民族が異なれば、習慣も文化も、ものの考え方も違う。
違えば、不必要な争いになる。
争いは、時に大きくなり、憎悪と暴力を生む。
食事に、ナイフを使うか、箸をつかうか、こんな程度の違いなら問題ないが。
何も好き好んで、自分たちの都合だけで、こんな状況を呼び込むこともないのに、と素朴に思う。
どだい違う文化、習慣を「尊敬」するなんてことはできないし、
ましてやすぐ隣に住んでいる異文化を尊重するなんてことは、できないだろう。