銀座の表通りで、平気で痰をしたり、タバコをポイ捨てする人を見るのはまれだろうが、
ちょっと裏通りに入ったり、飲み屋が立ち並んでいる小通りでは、守らないひとだってけっこういるだろ。
ニューヨークの犯罪を減らしたのは、街の落書きを消し、綺麗にしたことが大きいと言う。
これは仏教でいう業のことだろう。
昔は、待ち合わせで、その場所でタバコをすって、待っていた。
すいがらは、その場に捨て、靴でもみ消した。
誰かが清掃するんだろうけど、そこまでは想像力が及ばない。
ポイ捨ては平気だった。
自分が清掃をするようになると、気になる。
せっかく綺麗にしたのに、って思う。
かってなものだ。
痰唾で道路を汚さない、ポイ捨てをしない、など「誰かが掃除をする」という想像力が要る。
しかも、その清掃する人を思いやる気持ちが無ければ、痰唾をする。
誰かが清掃するところまでは、想像できても、その先の気持ちが、
「それはその人の仕事だ」
と考えれば、やはりポイ捨てはするだろう。
この点は、一般的な日本人は、かなり優れていると思う。
世界から称賛され、民度が高いとなる。
ホテルやデパートでは、さすがに床にポイ捨て、痰唾はないだろうが、
駅のプラットホームでは見かける。
しかし、このごろは、高級と言われるマンション、床は立派な石を敷き詰め、ローカはカーペットになっている。
こういったところでも、平気でペットにおしっこをさせたり、唾を吐いたり、嘔吐したりする若い人がいる。
教育は、やはり大切で、街をきれいにする、それを維持するには、根気よく長い時間をかけて行うものだろう。
汚すのは、それに比較すれば、至極簡単で、あっという間に汚くなる。
業は、そういったものだろう。