どうでもいいことなんだけど、
動画で指摘されているコメンテーターの言い分を聞くと、気の毒になってしまうことがある。
女性が天皇になれないのは差別だとか、現代なら女系でもいいではないかとか、男女同権だとか、
何か言いたいんだろうけど、その主張には素直に頷けない。
実は、頷けないより先に、言い方に「品」がない。
なんとなく、嫉妬など歪んだ気持ちが垣間見えてしまう。
ここまでくると、内容、主張より先に、生理的に敬遠したくなってしまう。
愛知トリエンナーレ芸術展が話題になったが、
芸術の芸術たるゆえんは何かというのは、各自で異なるかもしれない。
そうであっても、だれもがこの要素だけは外せない、という視点があるだろうと思う。
現代アートなる言葉があるが、現代アートも、古典的アートも違いがあるのか分からないが、やはり、芸術の芸術たるゆえんには、共通した「感覚」があるだろうと思う。
時々訪れる「時の風景・・・Rumiko」。
有名なのか、まったく知らないが、虚心坦懐、素直に彼女の描いた作品を見ると、生きることに直向さというか、一種人間として完成されたような感覚というか、
「品」を感じてしまう。
まごうことなき「芸術」を感じる。
自分の場合は、芸術作品を見るとき、作品の良しあしというか、出来不出来というか、主張だとか、そんなことより先ず「品」があるかどうかに、左右されているように思う。
もちろん意識しているわけではないが、無意識の鑑賞感覚とでもいうかもしれない。
「品」は、それまで生きてきた、身についた積み重ねの結果だろう。
思想には品を積み重ねる効果はない。頭の中だけで考えた観念論には、品を醸成する力はない。
一人では生きられない社会生活の中での行動でしか品は身につかない、そう思っている。