動画を見ていたら、
左側とか、 リベラルとか言われる人は、姿かたちがいいとか、頭がいいとか、そういったイメージがあると、数量経済学者の高橋さんが述べていた。
反対側は、無骨らしい。
このような感じは、自分が学生時代からあって、頭のいい奴が左側という一種の固定観念があった。
今考えれば、流行のようなもので、根拠などなく、一種の風潮だった。
現代でもそうなのか、分からないけれど、動画や時々見るテレビでの印象では、左側の人々は、姿かたちはともあれ、
頭がいいとはまるで感じない。
昔、働いていた近くにソ連大使館があって、そこによく右翼団体の若い衆が大音量で何かを主張していた。
この印象から、右翼はとにかく野蛮で、野卑で、暴力的で、そんな印象を持った。
いまはロシア大使館なのだろうが、このまえ近くに行ったら、やはりなにかをがなり立てていた。
あいもかわらず、野蛮野卑の印象だった。
ところが、
動画では、左側の人々のほうが、陰気で、陰に隠れてこそこそなにか悪いことをするような感じが強い。
学生運動が盛んだったころ、
東大出身の頭脳明晰集団が、仲間同士で何人も殺してしまう事件があった。
このとき、共産主義は、いい加減な宗教と変わらないと、分かった。
もともと、共産主義は観念の遊びで、いい加減な宗教の世界とまるで変わらない。
観念は止まることを知らず、どこまでも広がってしまう。
観念の行くつく先は、結局
「現実」と「観念」の境目が分からなくなり、相手なり、対象を殺害して、終焉する。
そして、この個人的な考えは、いまでも変わることない。
観念の最終は、死しかないのは、歴史が証明している。
韓国の歴代大統領の悲惨な末路は、観念の遊びの一つの結論で、
歴史のねつ造から始まって、自分たちに都合のいい歴史観に変えて、しかも、それを子供から教育を施して、
国全体を観念の世界に浸らせる。
出発点が間違えば、いい結果はやってこない。