ペルーは賄賂の国で、賄賂を利用しないと、生きるのがなかなか難しい。
役所の日常の手続きとか、交通違反だとか、とにかく、賄賂が必要になる。
賄賂が嫌なら、もちろんやる必要はないが、単に時間がかかり、面倒くさいだけだ。
日常の生活から、政治の世界でも、とにかく賄賂は横行している。
賄賂とともに、必要なものが、それなりの地位にいる「友人」だろうか。
昔、友人が、5年も前の交通事故で警察に捕まって、留置されてしまった。
友人の奥さんから連絡を受け、すぐ大統領官邸の「友人」に電話し、事情を説明すると、
簡単にすぐ釈放された。
いったいどうなっているんだと、思ったものだ。
昔、芥川賞だの直木賞だのと、純粋に考えていたが、
けっこう裏ワザというか、やはりある程度の手掛かりというか、小説の出来具合とは別に、むやみやたらには、候補にはならないと、聞いたことがある。
絵画の展覧会などはどうなんだろうか。
文章にしろ、絵画にしろ、目に見えるものには、その賞にふさわしいレベルに達していなければ、批判がすぐ出るだろうから、
おかしいと思われる審査などはやりにくいだろう、ことは素人でもわかる。
サッカーは、日本人の性質に合わないスポーツだろう。
サッカーはスポーツの中でも珍しく、反則を技術の一つとして組み入れているからだ。
そうは、なっていないと、関係者は言うだろうが、素人には、「反則も技術のうち、そう見える」。
相手に反則させたり、自分が反則をうまく使うことが許されているだろう。
サッカーは、だから、粋さに欠ける。
ゴルフは、珍しく、審判のいないスポーツで、反則には厳しく、反則は、技術のうちにはいれていない。
やろうと思えば、いつでもできる反則だが、反則をためらわせるスポーツだ。
こちらのほうが日本人のメンタリティーにあっている。
今、生きている日本人は、事実として、列島の環境の中で、その影響下で生きてきている。
先祖たちが生きていた土地で採れたものを食べて、身体を維持し、文化伝統習慣を積み上げ、子孫につないできた。
そのせいで、日本人は反則を嫌い、フェアーを求める。
チャイナや韓国の博物館には、
とんでもない拷問のやり方が展示してあるという。
しかも、それは全部「日本人のやり方」として、表現されているという。
かの国の子供たちをそれを見て、日本人はなんと残酷だろうか、と感じるだろう。
日本はできた時から日本で、ず~~~と、変わらず、日本のままだ。
こんな国はほかにない。
国旗も国歌も、国自体が変わったことがないので、そのまま、昔からのものを、国旗として、国歌として使っている。
他国のことは知らないけれど、国が変われば、国旗も国歌も変わっていくだろうと思う。
日本の場合、国歌も国旗も「いまさら」文句言われてもって、そう思ってしまう。
国歌を歌わないとか、自由だとか、強制はいかんだとか、主張する人がいるけれど、
粋じゃないなと思う。