天皇陛下の写真をバーナーで燃やし、燃えカスを足で踏みつける映像。
これが芸術範疇に入るかといえば、逆立ちしても無理だろう。
芸術には縁のない素人には、そこには、思想も哲学も主張もなく、ただただ、ひたすらどす黒い憎しみしか感じない。
最高の芸術でなくとも、
それなりの芸術性を帯びていれば、日本人は、たいてい何かを感じる民族だろうと思う。
そういった資質が日本人には備わっているように思う。
日本には芸術専門の大学もあれば、芸術に関係し、生活している人々もいるし、
プロでなくとも絵画を描き続けている人々もいる。
その人々は、トリエンナーレの問題とされている三点の「芸術性」をどのように評価するのだろうか。
ニューヨークの友人宅には、廃棄自動車の山から鉄くずを集めて、それをいろいろ組み合わせたものを飾っている。
どこかに出品された作品を買ってきたというが、
みても、なにも感じない。
文明に対する批判、あるいは廃材を通した悲しみなど、なにもない。
一面に咲き誇った花が、短い時間とともにしおれて、枯れていくさまは、「わび」だろうし、
枯れて落ちた花は、風と共に粉々になって、どこかに吹き飛ばされていくのは、「さび」になるだろうか。
いずれにしても、そこには思想なり哲学なり、満足感なり、悲哀なり、なにか自分の生きざまと重なる部分を見る。
日本には、源氏物語や、絵画、彫刻など、昔から芸術性の高いものがたくさん存在する。
当時「芸術性」などの言葉や概念があったかどうか知らないけれど、作品に対する「感覚」は現代と変わらないだろうと思う。
あの岡本太郎が、縄文時代の陶器を見て、その芸術性に驚いたというが、
想像だが、当時の人々から長きにわたって、知らず識らず芸術に対する感覚を積み上げてきたのだろうと思う。
そういった資質は、日本人にはあるのだろうと思う。