小学生のころ、先生が、
「スイスではバスは運転手だけで車掌はいない。それでもみんなちゃんと料金を支払う」
そう説明したことを覚えている。
これにはびっくりした。
現代では、日本ではそれが当たり前になった。
ここまでくるには日本全体がそれなりの努力をしないとできない。
外国からの労働者を受け入れたとき、
南米からたくさん人が来た。
彼らからみたら日本人は隙だらけで、いつでもドロボーができた。
友人のペルー人が、こう言っていた。
スーパーに入ったらスペイン語を話さないでと、言われた。
スペイン語を話すと、店員が後をついてくるからと。
それだけ万引きが多かったわけだ。
いまでもそうか、わからないが、そうでないことを願っている。
ペルーに行けるかもしれない。来年1月に予定した。
今回はNY経由。
NYの友人たちに再開するのも楽しみだ。
NYはさすがにアングロサクソンがつくった町だなと思う。
経済活動の中心はビルが立ち並ぶが、そこから一時間も車で走れば、田園風景だ。
鹿、七面鳥など野生動物が庭にやってくるほどの自然にあふれている。
なんにしても哲学とか、思想とか、文化とか、なにかに裏打ちされている事象はそれなりの価値を感じる。
なにか畏敬さが迫ってくる。
日本は、なんでも「道」にしてしまう癖というか、文化というか、匠を感じさせるものにしてしまう。
お茶、お花、庭、陶器、あの刀までそうだ。
こういったことは、一朝一夕ではできるものではないが、それを全く理解できない人々がいる。
理解できないとは、つまりは自分が生きてきた環境にそういったものが存在しないことを意味する。
思想や文化は長い時間をかけて積み重ねてできるものだろう。