人類の歴史の中で、とはいえ、歴史なんて詳しく知らないが、
おびただしい人を殺してきたのは、共産主義と一神教だろうと、思う。
旧ソ連、ポルポト、チャイナなど共産国家が殺した自国民は、とんでもない人数だろう。
この二つに共通しているのは「絶対」の存在だろうと思う。
普段使う絶対とは違い、例えば神の愛といえば、神聖だし、絶対だし否定できない概念だろう。
共産主義で言えば、マルクスだし、時の政権を握った毛沢東であり、レーニンであり、金日成であり・・・。
それにしても、一神教は聖典の「解釈」が難しく、結局その解釈をめぐる問題はいまでも続いている。
輸血を禁止するキリスト教団体があるが、現在に至るも同じかどうか知らないけれど、
結局、血を食べたらいけないと聖書の記述を、どのように解釈するのか、それ次第となる。
キリスト教徒ならざる自分には、なぜ問題なのかさっぱり不明だが、答えがたくさんることだけは理解できる。
人間が日々誰かと関係したり、喜怒哀楽を味わったり、毎日生活する中で、
絶対という感覚は、いつも必要じゃないし、いい加減も、ときに必要だし、
適度にやることだって大事だし、
あちこちに神を感じるのもいいことだし、
こんな風にしている自分には、
一神教も共産主義も、体質的合わないだろうと、思っている。
おびただしい人を殺してきたのは、共産主義と一神教だろうと、思う。
旧ソ連、ポルポト、チャイナなど共産国家が殺した自国民は、とんでもない人数だろう。
この二つに共通しているのは「絶対」の存在だろうと思う。
普段使う絶対とは違い、例えば神の愛といえば、神聖だし、絶対だし否定できない概念だろう。
共産主義で言えば、マルクスだし、時の政権を握った毛沢東であり、レーニンであり、金日成であり・・・。
それにしても、一神教は聖典の「解釈」が難しく、結局その解釈をめぐる問題はいまでも続いている。
輸血を禁止するキリスト教団体があるが、現在に至るも同じかどうか知らないけれど、
結局、血を食べたらいけないと聖書の記述を、どのように解釈するのか、それ次第となる。
キリスト教徒ならざる自分には、なぜ問題なのかさっぱり不明だが、答えがたくさんることだけは理解できる。
人間が日々誰かと関係したり、喜怒哀楽を味わったり、毎日生活する中で、
絶対という感覚は、いつも必要じゃないし、いい加減も、ときに必要だし、
適度にやることだって大事だし、
あちこちに神を感じるのもいいことだし、
こんな風にしている自分には、
一神教も共産主義も、体質的合わないだろうと、思っている。