今年一年、ありがとうございました。
また、昨年と同じように、この感謝の言葉を書くことができた。
日本のあいさつの習慣というか、文化というか、考えてみるとなかなか奥が深い。
「こんにちは、お元気ですか?」
「はい、お陰様で」
この「お陰様」は、いったい誰の、あるいは何を示しているんだろうか。
これが一神教なら、絶対の神様ってことで、落ち着くが、日本の場合は、その絶対がない。
自分が健康、平穏無事などなど、安心して生活できるのは、周囲、つまり、親、友人知人、先祖からかかわりのあるすべてのもの、
それらのおかげである、ということなのだろうと想像がつく。
考えなくとも、日本の文化には、「絶対」がない。これは、しかし、世界的に見ても特異なことだろうと思う。
よく言われる仁徳天皇の民のかまどの話は、為政者としての徳、民を思う心、などの例としてよく聞くが、
本当はというか、事実は、「絶対」という概念が当時から存在しなかったことの、日本人の基本的な思想ではなかったか、
そう思う。
こういった基本的な共通した考え方というか、生きるための魂胆というか、そういった常識があったんだろうと思う。
それゆえ、絶対の概念のある一神教は日本人は合わないので、それほどの広がりがなく、
仏教の○○のお陰という縁起は、すなおに日本人に受け入れられたのではないかと思う。
というわけで、お陰様で、健康、家内安全に過ごすことができました。
今年もお世話になりました。
来年もよろしくお願いいたします。
また、昨年と同じように、この感謝の言葉を書くことができた。
日本のあいさつの習慣というか、文化というか、考えてみるとなかなか奥が深い。
「こんにちは、お元気ですか?」
「はい、お陰様で」
この「お陰様」は、いったい誰の、あるいは何を示しているんだろうか。
これが一神教なら、絶対の神様ってことで、落ち着くが、日本の場合は、その絶対がない。
自分が健康、平穏無事などなど、安心して生活できるのは、周囲、つまり、親、友人知人、先祖からかかわりのあるすべてのもの、
それらのおかげである、ということなのだろうと想像がつく。
考えなくとも、日本の文化には、「絶対」がない。これは、しかし、世界的に見ても特異なことだろうと思う。
よく言われる仁徳天皇の民のかまどの話は、為政者としての徳、民を思う心、などの例としてよく聞くが、
本当はというか、事実は、「絶対」という概念が当時から存在しなかったことの、日本人の基本的な思想ではなかったか、
そう思う。
こういった基本的な共通した考え方というか、生きるための魂胆というか、そういった常識があったんだろうと思う。
それゆえ、絶対の概念のある一神教は日本人は合わないので、それほどの広がりがなく、
仏教の○○のお陰という縁起は、すなおに日本人に受け入れられたのではないかと思う。
というわけで、お陰様で、健康、家内安全に過ごすことができました。
今年もお世話になりました。
来年もよろしくお願いいたします。