昔、ルーブル博物館に行った。
凄まじいほど絵画だらけで、こんな絵を見たら、絵画を描こうなんて誰も考えないだろうと思った。
絵画を鑑賞していると、小学生の一団がきた。各自スケッチブックとクレヨンをもっていた。
ひとりの小学生が、絵の前でしゃがみ込んで絵画を模倣し始めた。
丁寧に描くのではなく、ものすごいスピードで、クレヨンをとっかえひっかえやっていた。およそ五分程度か、だいたい描き終わると。次の絵画に向かっていった。
どの絵画も、なにかを訴えてくるような感じがする。何かを主張しているのか、なにかを伝えようとしているのか、
鑑賞しても分からないが、
作品は、作者の意図からずれて、あるいはそのままストレートに干渉する側に押し寄せてくるのもあれば、
さっぱりなにも感じないものもある。
主張があろうが、意図があろうが、とにかく「うまい」。
日本の浮世絵や、景色の版画、単に鶏を描いたものが多いが、
そういった日本の巨匠が描いたものには、主張もなければ、訴えかけてくるものもない、そう個人的には思う。
単に「描きたいから描いただけ」、そういった感情しか感じない。
一種の自由というか、解放感というか、囚われない背景をみてしまう。
想像するに、うまさ下手さよりも、描きたいから描いた、ってこの自由さ、解放感、囚われない感覚に、
ゴーギャンなどのヨーロッパの画家は、初めて触れたのではないだろうか。
神様はそういうけど、人間の心は、こうなんですよ、ってことを読み取ったのかもしれない。
考えるまでもなく、深く考えなくとも、日本ほど民度の高い民族は、そうそうにないと思う。
朝、「おはよう」という挨拶は、日本独特だろうと思う。
英語でもスペイン語でもフランス語でも、朝の挨拶は、
今日とういう日が、あなたにとっていい日でありますように、って、おそらくそんな意味合いだろうと思う。
祈りの言葉だろう。
日本語の「おはよう」は、いつごろから使い始めたのか知らないけれど、祈りはなく、
いたわりの言葉だろう。
こういった背景を想像すれば、日本でよかったと、素直に思える。
凄まじいほど絵画だらけで、こんな絵を見たら、絵画を描こうなんて誰も考えないだろうと思った。
絵画を鑑賞していると、小学生の一団がきた。各自スケッチブックとクレヨンをもっていた。
ひとりの小学生が、絵の前でしゃがみ込んで絵画を模倣し始めた。
丁寧に描くのではなく、ものすごいスピードで、クレヨンをとっかえひっかえやっていた。およそ五分程度か、だいたい描き終わると。次の絵画に向かっていった。
どの絵画も、なにかを訴えてくるような感じがする。何かを主張しているのか、なにかを伝えようとしているのか、
鑑賞しても分からないが、
作品は、作者の意図からずれて、あるいはそのままストレートに干渉する側に押し寄せてくるのもあれば、
さっぱりなにも感じないものもある。
主張があろうが、意図があろうが、とにかく「うまい」。
日本の浮世絵や、景色の版画、単に鶏を描いたものが多いが、
そういった日本の巨匠が描いたものには、主張もなければ、訴えかけてくるものもない、そう個人的には思う。
単に「描きたいから描いただけ」、そういった感情しか感じない。
一種の自由というか、解放感というか、囚われない背景をみてしまう。
想像するに、うまさ下手さよりも、描きたいから描いた、ってこの自由さ、解放感、囚われない感覚に、
ゴーギャンなどのヨーロッパの画家は、初めて触れたのではないだろうか。
神様はそういうけど、人間の心は、こうなんですよ、ってことを読み取ったのかもしれない。
考えるまでもなく、深く考えなくとも、日本ほど民度の高い民族は、そうそうにないと思う。
朝、「おはよう」という挨拶は、日本独特だろうと思う。
英語でもスペイン語でもフランス語でも、朝の挨拶は、
今日とういう日が、あなたにとっていい日でありますように、って、おそらくそんな意味合いだろうと思う。
祈りの言葉だろう。
日本語の「おはよう」は、いつごろから使い始めたのか知らないけれど、祈りはなく、
いたわりの言葉だろう。
こういった背景を想像すれば、日本でよかったと、素直に思える。