共産主義も社会主義も、あるいは、左側の思考とか、
どうもうさん臭くて、にわかに信じられない。
それは、たとえば、夫婦別姓だとか、ジェンダーだとか、女系天皇だとか、きいていても、
とても賛成できない。
共産主義は宗教だ、と聞いたことがあるが、
現実をみると、ああ、その通りだなって感じる。
ただこの表現は、宗教はそれほどいいものではないという先入観があるから、半分揶揄した感覚も伝わってくるが、
実際は、共産主義を宗教の中でも、たとえばオーム真理教や、狂信的な団体と重ね合わせている。
先人が、外国語に宗教と言う訳語をあてたのは、キリスト教をよく知らなかったからで、たとえば、
神道、仏教、ヒンズー教などは、キリスト教などの一神教とはまるで異なるから、宗教という言葉で括るのは誤解を生む。
日本には新興宗教なる言葉があるが、総じて新興宗教がもつ言葉のイメージは、それほどいいものではないだろうと思う。
高橋先生が、左側の思考は感性に訴えることが多いと、発言していたが、その通りだなって思う。
共産主義も、当初は理論が先にあったろうが、現実に理論通りいかないし、実際に失敗している。
実際失敗なら、理論が間違っていた、ということになる。
にもかかわらず、いまだに左側の人々は、左側の思考に凝り固まって、現実を見ずに、大衆の感性に訴えることばかりに、固執している。
ただ、感性に訴えることがすべて悪いとか、間違っているとか、それはないだろう。
体験でものを考えるのは間違っているか、といえばそうとも言えない。
理屈さえ正しければ、それでいいかといえば、やはり、そこまで人類は進化していないだろう。
ほどほどの感覚が大切なような気がする。
感性に訴えのは、韓国人が得意なようで、結局は、
自分たち自身がつくったねつ造、おとぎ話の輪から出られないことに完全に縛られているようだ。
昔、日本の歴史学者と韓国の歴史学者で話し合いというか、歴史観について議論したが、そのとき、日本人学者が、
歴史の事実を言うと、韓国の学者は、
「韓国に対する愛はないのか」
と、現実を見ることができない彼らは言った、そう聞いたことがある。
左側には、絶対神がいて、いまや理論、理屈などどこ吹く風で、現実も見ないで、ひたすら自分たちに思想に凝り固まって、
そんな風に見える。
どうもうさん臭くて、にわかに信じられない。
それは、たとえば、夫婦別姓だとか、ジェンダーだとか、女系天皇だとか、きいていても、
とても賛成できない。
共産主義は宗教だ、と聞いたことがあるが、
現実をみると、ああ、その通りだなって感じる。
ただこの表現は、宗教はそれほどいいものではないという先入観があるから、半分揶揄した感覚も伝わってくるが、
実際は、共産主義を宗教の中でも、たとえばオーム真理教や、狂信的な団体と重ね合わせている。
先人が、外国語に宗教と言う訳語をあてたのは、キリスト教をよく知らなかったからで、たとえば、
神道、仏教、ヒンズー教などは、キリスト教などの一神教とはまるで異なるから、宗教という言葉で括るのは誤解を生む。
日本には新興宗教なる言葉があるが、総じて新興宗教がもつ言葉のイメージは、それほどいいものではないだろうと思う。
高橋先生が、左側の思考は感性に訴えることが多いと、発言していたが、その通りだなって思う。
共産主義も、当初は理論が先にあったろうが、現実に理論通りいかないし、実際に失敗している。
実際失敗なら、理論が間違っていた、ということになる。
にもかかわらず、いまだに左側の人々は、左側の思考に凝り固まって、現実を見ずに、大衆の感性に訴えることばかりに、固執している。
ただ、感性に訴えることがすべて悪いとか、間違っているとか、それはないだろう。
体験でものを考えるのは間違っているか、といえばそうとも言えない。
理屈さえ正しければ、それでいいかといえば、やはり、そこまで人類は進化していないだろう。
ほどほどの感覚が大切なような気がする。
感性に訴えのは、韓国人が得意なようで、結局は、
自分たち自身がつくったねつ造、おとぎ話の輪から出られないことに完全に縛られているようだ。
昔、日本の歴史学者と韓国の歴史学者で話し合いというか、歴史観について議論したが、そのとき、日本人学者が、
歴史の事実を言うと、韓国の学者は、
「韓国に対する愛はないのか」
と、現実を見ることができない彼らは言った、そう聞いたことがある。
左側には、絶対神がいて、いまや理論、理屈などどこ吹く風で、現実も見ないで、ひたすら自分たちに思想に凝り固まって、
そんな風に見える。