日々、生活するうえで、無意識に自らが依って立つ精神的基盤、そんなものは滅多に意識したことはないが、
年齢を重ねると、(ああこれが自身の精神的な基盤なんだな)って感じるものが明確になってくる。
これがないと、なんとなくふわふわした毎日になってしまいそうな気がする。
特に仏教の、あのややこしい屁理屈のようなものは自分の性に合わないが、
もっと単純な鳩摩羅什が翻訳した法華経ではなく、その弟子の竺道生的なとらえ方により興味がある。
ニュートンが出現しようがしまいが、リンゴは太古の昔から木から落ちていた。
人々はそれに疑問を持たずに、日常的な風景だった、だろうと思う。
それに理屈というか理論というか、学問的に
「だから、リンゴは木から落ちる」
と明らかにしたのがニュートンなんだろうと思う。
仏教の始祖というか、この世の真理に気が付いたのは、釈尊で、
ヒトには親がいて、先祖がいて、
物事の結果、例えばリンゴは種があってそれが発芽して、実をつけるが、発芽するには、適度な光や水が必要で、
それらを縁というが、それらの理屈を明らかにしたのは釈尊だろう。
物事には絶対はなくて、相互に依存しているというのも、真実だろう。
こういった本当のことに裏打ちされている仏教はとても面白いと思う。
本来、差別などはなくて、あるがままの世界しかない。
人間であれば、さまざまで、それに理屈をつけるのは、邪道だろう。
日本には太古の昔から、話題になっているLGBTなど差別はなくて、あるがままの世界を受けて入れていたのが日本だったし、
これを指摘する識者は多い。
それに、おかしな理屈をつけて、法律にしようというのは、
どこかの愚かとしか思えない。
自らが依って立つ精神的基盤は、無意識にしても、
日本民族が何千年にもわたって築き上げてきた歴史、文化、習慣、伝統など、
その結果、その積み重ねだろう。
これを失うのは、自らを失うのと同じである、そう思うが。
年齢を重ねると、(ああこれが自身の精神的な基盤なんだな)って感じるものが明確になってくる。
これがないと、なんとなくふわふわした毎日になってしまいそうな気がする。
特に仏教の、あのややこしい屁理屈のようなものは自分の性に合わないが、
もっと単純な鳩摩羅什が翻訳した法華経ではなく、その弟子の竺道生的なとらえ方により興味がある。
ニュートンが出現しようがしまいが、リンゴは太古の昔から木から落ちていた。
人々はそれに疑問を持たずに、日常的な風景だった、だろうと思う。
それに理屈というか理論というか、学問的に
「だから、リンゴは木から落ちる」
と明らかにしたのがニュートンなんだろうと思う。
仏教の始祖というか、この世の真理に気が付いたのは、釈尊で、
ヒトには親がいて、先祖がいて、
物事の結果、例えばリンゴは種があってそれが発芽して、実をつけるが、発芽するには、適度な光や水が必要で、
それらを縁というが、それらの理屈を明らかにしたのは釈尊だろう。
物事には絶対はなくて、相互に依存しているというのも、真実だろう。
こういった本当のことに裏打ちされている仏教はとても面白いと思う。
本来、差別などはなくて、あるがままの世界しかない。
人間であれば、さまざまで、それに理屈をつけるのは、邪道だろう。
日本には太古の昔から、話題になっているLGBTなど差別はなくて、あるがままの世界を受けて入れていたのが日本だったし、
これを指摘する識者は多い。
それに、おかしな理屈をつけて、法律にしようというのは、
どこかの愚かとしか思えない。
自らが依って立つ精神的基盤は、無意識にしても、
日本民族が何千年にもわたって築き上げてきた歴史、文化、習慣、伝統など、
その結果、その積み重ねだろう。
これを失うのは、自らを失うのと同じである、そう思うが。