ペルーに、長い間生活したので、当時日本で流行したヒット曲には疎い。
何年ごろか、リマにもカラオケ店ができた。
マグロ船の船員が開いたカラオケ店が、一軒だけあった。
日本人駐在員も多かったが、日系二世の老若男女もいた。
日本語も、それほど理解できるわけでもない彼らが、日本の歌を歌う。とにかく、うまかった。発音もまるで日本人だった。
それもそのはずだった。ペルー日系人協会が、年一回紅白歌合戦を開催していたのだ。
これに出場するには、審査がある。希望者は、全員うまい。
その後、日本の新しいカラオケセットをもってきて、本格的なカラオケ店を開く日系人もいた。
中でも有名だったのが「カラオケ東京」だった。
当時、ディアマンテスのベト城間などが出演していた。
ベトには、少しの間だけ日本語を教授したことがあった。それでも、よく覚えていてくれて、後年、ペルー大使館で開催されたペルー展に招待されたとき、
「先生」
と声をかけられて、懐かしく抱擁してしまったことがある。
彼には、浜松にあるペルー人、ブラジル人の子弟を対象とした学校があるが、そこに来てもらってショウを開いてもらったことがある。
ギター一本で、当時の姿を思い出した。
ベトは、あの尾崎紀世彦から、日本で一番歌のうまい歌手と評価されたと、聞いた。
「池上線は」知人からいい歌だというので、動画で視聴した。だいぶヒットしたというが、まるで知らなかった。
今頃覚えて、カラオケで練習でもしよう。
ペルーの治安悪化が一途をたどったころでさえ、
カラオケに通う駐在が後を絶たなかった。外出禁止令というか、夜8時までとか規制があった。
当然、爆弾事件があちこちあり、停電が日常になった。
それでも、カラオケで、一杯飲む駐在員の姿があった。
危険と承知しつつ、カラオケに行く。
ペルーの歴史で、100年も経過すれば、暗黒の時代とか、暗い時代だったとか表現されるだろうが、
事実は、それでも、住んでいる人は、あはは、いひひ、と笑いながら生活している。